よく光話で、この世は本物が偽物のように見え、偽物が本物のように見える。ゆえに私は質問を受けました。なぜ、本物が偽物のように見えるのか、また偽物が本物のように見えるのかと。
偽物は皆さんの目に映し見ることもできる。しかし本物は見ることはできない。それは常に、実相と仮想という方法で表現しています。仮想世界は見ることもできる、実相世界は見ることができない。ゆえに人間は、見えるから信じられる。見えないものは信じられない、見えるから在るんだ、見えないものは無い。そのように錯覚をしているがゆえに、私はこういう表現をします。
本物は偽物のように見え、偽物が本物のように見えるゆえに、この現象の世界で悟りいこうとすることの難しさ。だからこそ明想をとおして、見えないものを見よと、見えないものが真実だよと、常にそう説きます。見えているものなんて、常に常に在るものではありません。
この世は無常なり。この世は無常世界。あるいは影・幻、幻影の世界。その無いものに在るという錯覚で皆さんは、踊り踊らされていること。しかしけしてまた、この見える世界を粗末にしなさいではありません。また、ゴミ箱に塵ごみを捨てるように捨てなさい、という意味でもありません。そこは、皆さんがちゃんと理解してもらいたい。
ゆえに、この見える物質肉体をもって、我々はこの地球という大舞台で、宇宙という大舞台で、愛を、神の絶対実在として演ずるために与えられた世界。だから粗末にしてはならない、無視してもならない。しかし、本物と偽物は識別し行かねばなりません。
肉体がどんなに在ると言ったって無いもの。皆さんがまず少しでも、深い明想状態を体験した者ならばわかるでしょう。我、肉体にあらず、我、心にあらず、我、感情や五感や理性にあらず。
なんと言いましょうか。見ることもできない、不可視の無限の、それは言い方は神でもいいし、命でもいいし、宇宙真理でもいいし、意識でもいい。我無限の意識そのものであったと、そのように皆さん言いきるときが来るであろうと。
もちろん皆さんが今の今にでも深い明想状態を体験したならば、肉体なんて真実ではなかった。肉体は、ただ表現するために一転生人生の乗り船であって、真実本物ではなかった。誰もそう言うことでしょう。だからこそ人間意識、肉体意識、個人意識なんて、どこにも存在しない。あるならば唯一ひとつ、神性意識。ゆえに神一元、神は無限なり、神は完全なりと言いきります。一元なるゆえに。
千葉で潜在意識、顕在意識、表面意識、いろんな意識がある。どの意識で生きればいいのか、どの意識なのかと言われました。なぜ私が一元を説いているのか、と。そこに顕在意識だ、あるいは表面意識だ、意識、意識があるならば、私は一元なんて説くことはできません。なぜ一元なのか。一つしかないから一元です。一つしかないから無限です。一つしかないから完全なんです。
皆さんが二つを見るから、健康も見る、病気も見る。悟りも見れば迷いも見る。善も見れば悪も見る。しかし皆さんが、一元と言うならば、なにが見えましょうか。神の完全意識のみが実在、つまり神性意識。表面意識、そういう意識なるものはどこにも存在しません。
ただ説くために、このマーヤの持つ二元のこの世界で、一元に導いていくために説くことは、例えば見えるこの物質という形なるものを、三次元と説くのもいましょう。で、溶けて水となった状態を二次元と説くのもいるでしょう。氷から水、水からまた気体という根源に帰ったことを、一元と説くのもいましょう。しかしそれは、すべて一元の中の現れであって、分離して、一元二次元三次元があるでもないし、分離して個体・液体・気体があるでもない。すべて、無限という根源の中のこと。
だから皆さんは初めから、二面性三面性四面性に振り回されることなく、即一元というものを理解してもらいたい。今から皆さんは、難行苦行・滝行・断食して神になろう、神になりたいではなく、我すでに、、
なにを明想しましょうか。今から神になりたい。神よ、神よ、神に、と皆さん明想するのか。我すでに神なり。我すでに愛なり。我すでに無限なり。なろうでは分離であり、また溝を深くするということを知ってもらいたい。
一体であるならば、我すでに神なり。我すでに真理なり。我すでに無限なり。皆さんが、この二面性を持つマーヤの世界から解脱したとき、皆さんは神一元ということを知るだろうと。例えばこの肉体にどんな病を背負っていても、我完全なりと言いきるときが来るだろうと。
常に完全です。過去において、今において、未来永劫に完全そのもの。ただ皆さんが、ここはどうしても神が形を持って現れるには、バランス。プラスとマイナスの。だからこの現象の世界は、女性がいれば男性がいる。雄がいれば雌がある。で、雌しべがあれば雄しべがある。陰石があれば陽石がある。
しかし実相という、、実相、根源の世界は一元。プラスマイナスが分離してあるでもない。即一元。だからプラスでもなければマイナスでもない。そこを皆さん自身が今日の今日、これが理解できるのであれば、今日の明想で、すばらしい明想をとらえることができるであろうと。
二元は存在しません。ただこの現象の世界に現れるには、どうしてもプラスマイナスという調和、バランス、それで一体を教えるためにそうしていることであって、本来は一つです。じゃぁ、プラス電気だけで明かりを灯すことはできない。マイナス電気のみでも明かりを灯すことはできない。プラスとマイナスは分離して存在でもなく、一体としてあるがゆえに、電気、光を灯すこともできる。
このように我々が、全一体、その一元一体その中に入ったときには、女性もいなければ男性もいない。女性も感じなければ、男性も感じない。私がそれを何歳で説いたのか。幼稚園で私それを説きました。この世には女性もいなければ男性もいない。気違いと言われました。
お前は男として生まれ、ここには女性もいる。なぜそれが女性もいなければ男性もいないのかと。私にはもう、根源そのものがすでに見えていたってこと。気違い呼ばわれされました。なにを言うのか、馬鹿か気違いかと。
だから私のお母さんは非常に恐れました。この世に肉体を持てば、ある程度いい学歴を持って、小学校・中学校・高校・大学と、そこでいい職に恵まれて、いい女性男性とめぐり会って結婚して子を作って、ある程度豊かな生活を送れる者を成功者だと、そのようにこの世の中の人間が見ている当時ですから、私が女性もいなければ男性もいないと言うならば、もうお母さんには恐怖当たり前。
なぜ。結婚する相手はいない、女性もいないんだから。見えてないんだから。それを非常に恐れました、私のお母さんは。結婚する相手がいなければ、もう結婚ができない。女性もいなければ男性もいないと。よくしたもので、そういう状態ではおかしい人間として、あの精神病院に連れて行かれていたかも知れない。
幸いに南米のジャングルで、すべて追求しているものも、そのように訴えていたものも、すべて閉ざされました。そこで女性もいれば男性もいる。また、死んでも死なぬと言っていたのが、動物やいろんなものの死がいを見せられて、死ぬだろと見せられて、あ、死ぬんだという、その観念をまた持って参りました。
しかし沖縄に帰って来ても、どうしてもその、今、耳に聞かされていることが納得できない。女性もいれば男性もいる、人間は死んでいく。もうそれが納得いかない。そこからまた、追求、追求したときに、どこに。私が小学校のときから、2、3歳で全く意識そのもので感じていたとおり、見ていたとおりの世界ではないのかと、戻っただけ。
だからあなた方も、肉体というその観念づけた自分を、我は命であり、神であり、無限の意識であると、戻すだけ。それがなかなか難しいこと。だからこそ明想してほしい、明想しろと言います。なぜならば、どうしてもこの肉の目で見ているかぎりは、見ているものを皆さん在ると錯覚をしがち。また耳になにかを聞けば皆さんは、在ると錯覚をする。
例えばここで皆さん。皆さんはこの形は見ていません。ここに居て、中で、外側で犬が吠えている。かならず皆さんはそれを、様々な思考を様々な観念で描こうとします。今の声の質からして、この犬は大きいものか、あるいは子犬なのか、だいたい中間にいるのか。で、そのように皆さんは観念づけてそう考えようとします、今吠えている犬を。で、どういうタイプなのか、どういう種類なのか考えようとします。もうこの現象という結果に振り回されている姿。
私には、ここでどんなに犬が吠えているその声を聞いても、私がそこそのものに完全に意識を持っていかぬかぎりは、聞いて聞かず、もうそこに耳には聞こえていても、それそのものを追いかけることもない、振り回されることもない。ゆえに私の思考は、この現象という結果なる偽我の思考が止まるがゆえに、常に内なる神の直感、神の思考が入り来ること。
あの法玉明想の大切さを皆さん、知ってもらいたい。あれは、ただただ、ここに法玉明想で、、最初は、どうしてもインドで明想を学んだ友達や知り合いが、どうしても睡魔に負ける、どうしても雑念に妨げられて、なかなか明想に入れない。あの明想の達人のいるインドで学んで来たにしても、偉大な聖人から学んで来たにしても、向こうではその波動を受けて、いい明想ができたかもしれない。で、明想に入れたかもしれない。
しかし、沖縄、日本に帰って来ては、どうしてもその明想ができない。睡魔には妨げられ負け、雑念には妨げられて明想に入れない。いい明想をする方法はないのかと、もう沖縄の当時から私は言われておりました。しかし、自分自身も完璧に明想はこなしてないし、努力に努力を積み重ねている当時ですから、いつか必ず、絶対にたやすく明想ができるように、私は必ず見出してあげるからで約束していたんです。その友達みんな離れていること、今。もったえない。
そのように自分自身はこのチャクラでも、7つのチャクラの、、明想もインドで学んで来た方々も様々。サハスラーラチャクラに意識を向けた方がいい、アジナがいい、甲状腺の方がいい、ハートチャクラがいい、あるいはまた性腺、その丹田がいい、様々でした、聞けば。で、私もそれを第1のチャクラに集中して、何年も。で、それが終わって、また第2のチャクラに集中して、何年。そういうふうに一つ一つのチャクラを探ってきて、最高な明想に入れたのが、このアジナチャクラを見出したとき。
あの北海道で、セミナー終えてホテルにチェックインして明想し出したときに、そこそのものをはっきり見せつけられたこと。そこに、まず我々は、なぜそこに玉を描かし、それが白光輝いているイメージを持たすのか。
どうしても我々は、、もちろん友達や知り合いはインドでは、ただマントラだけで明想することを教わってきました。我は神なり、我、光なり、我は愛なり。それでマントラで明想するけど、どうしても睡魔に負けて明想にならない。どうすれば睡魔に打ち勝つことができるか、あるいはまた雑念に妨げられずにできるか。
そのときに、皆さんが法玉。法玉とはいつも説明しているとおり、さっきも無形無双の原因なき原因に、便利いいように神と名前をつけた。仏と名前をつけた。あるいは宇宙真理、無限の意識といいように適当に、皆さんにいいアドバイスができるように導けるように、適当に名前をつけた。で、私はそれになんとつけたのか。法玉と名づけました。
この大宇宙、地球、動物、鉱物、植物、微生物まで、すべてを創造し、完全なる愛の法則によって生かされています。狂いがあるならば、神は完全とは言えません。一点狂いなき、神の完全なる愛の法則によって、この宇宙の秩序すべてが保たれています。
もうそれも、小学校のときから、幼稚園のときから、なぜ空を見ればそこに数えられないほどの群れるその星で、なぜ星と星がぶつかり合うこともなく、地球になにかの惑星や星がぶつかって来ることもなく、なぜこの秩序正しく、この運行されているその智慧、力、愛、光は、どこにあるのだろう、それを私は追求しました。もう2、3才のときからは。
なにがそうしているんだろう。まぁ、そのときに答えを見出したのではない。明想ができるようになって、完全なる一点の狂いのない愛の法則によって、ここが保たれていることを知りました。宇宙が。
ならば、この世的なものだけど、ここに5名の子供が学校へ通学するか、あるいは行き帰る。で、そこに通り魔事件とかなんとか言われて、(まぁどこから来たか、ここから来たのか、ここから来たのかわからないけど、ここから来ているならば一番近いのはここ。で、ここから来たならば一番近いのはここ。にもかかわらず、)この者が刺されて死んで、殺された。
で、その子を持っている親ならば、偶然だとか、あの人が悪い、この者が悪いという生き方をします。そのようにしか見えないから。じゃ、この者の過去幾転生という人生のすべてが見えるのかと。そこにはそうあるべき、一点の狂いなき法則が働いたこと。
まぁ、もちろん理解できる皆さんの前ではその講話もできるけれど、理解のできない親の前で話すならば、とんでもないことが起こることは私は知っています。とんでもないこと。だから見えていても、知っていても、でわかるすべては明かせない、語れない部分があるというのはその意味です。ここまでは理解できる皆さんだから明かせる。
しかし、じゃ本当にこういうことがあっていいのか。私はそれを望んでいることではありません。神の完全なる法則の中にすべてが完全として、この法則を生きることができるならば、そのようなことが在り得るはずはない、本来は。ただ偽我として、偽我とは偽りの自分。偽りの自分が自分として、一人一人が生きるゆえに、こういう現象が起こるだけ。
で、じゃぁ私は今生なぜ肉体を持ったのか。そういう間違ったことをすべて正させるために、二度と再び殺したから殺される、殺されたから殺し返す、そういうことではなく、絶対愛で、すべてが赦し合って、すべての過去のすべてのこのネガティブ、破壊的な面、いたらない所、思い癖、悪習、すべてを超越さえるために、今、私はここに肉体を持っています。
で、その状態で一点の狂いのない神の愛の法則に司って、すべてが顕現されているこの世界を、私は神の愛の法則に司って、すべてを生かしていることを、宝の玉つけて法玉明想。で私が法玉というのは、なにを意味するのか。神なり、なんです。
この無形無双の原因なき原因に、他の宗教は神だ仏だ、様々な名前をつけて呼び合ったかも知れない。私は法玉と名前をつけました。だから私が法玉明想というならば、我が神であることを明想するという意味なんです。今から神になろうでもない、今からなにになろうでもない。我すでに神なり、というそれそのものの明想を、法玉と私は名前をつけました。
で、その法玉の明想。あえて皆さん自身に描かす必要もない、本当に皆さんがそのアジナチャクラにしっかりと意識を集中して明想ができるならば、睡魔に負けずに、また雑念に妨げられずに明想ができるならば、そこまでそうする必要もない。このアジナにしっかりと集中できれば。
しかし、なかなか難しい。そこに皆さんに法玉、で、その玉を描いて白光輝いているイメージを持たすならば、それを描こうとする力が働くから、皆さんは睡魔にも負けない、なかなか。で、雑念にも妨げられずに明想ができる。そのために法玉を描きながら、我すでに神なり、我すでに愛なり、我すでに命なり、と明想してほしいと私は常にアドバイスしています。
で、そこにもう一つまたそこに、この白光輝く法玉、その玉を描いているというには意味があります。私がそれは中国の上海で見せられました。
人間の脳の中には、まぁそれは象徴に見せられましたけれど、二つのパイプがあります。人間の中に、噴水で湧き上がってくるように。で、その二つのパイプで、今、人間の脳からは、どういうそのパイプから、なにが出てくるのか。
幾転生という人生の過程の中で、体験・経験したこと、また間違った常識を常識として観念づけてきたもの。間違ったまた神を描いてきた自分。それを観念・概念がすべて皆さんが明想しようとしたときに、湧き出てくることを雑念と言っています。
あぁでもない、こうでもない、あれが正しい、これが悪い、様々なものが浮き上がってくること。あるいは怒り、嫉妬、赦せない、様々なそのものが観念として、これ一つのパイプから噴水のように湧き上がってきます。だから観念・概念が雑念として湧き出てくるときは、神の思考が現れるパイプなんて沈んでいます、そこで。だから、一度に二人の主人を持つことはできぬと言われて、、
あなた方が肉体を我として生きているかぎりは、これを偽我と言いますから、偽我が働いているかぎりは肉意識。この偽我が働いているかぎりは、どうしても神は沈黙を守っています、皆さんの内で。で、逆にまた神が現れたら、偽我は消える。偽我は沈黙を守ります。
そのように、で、この偽我の思考が雑念として湧き出てくるかぎり、神の思考・インスピレーション・メッセージは皆さんが受け取ることもできない、働かし得ない。だからもう偽我ドン底で悩んだり苦しんだり、もがきあがくこと他にない。
しかしそこに皆さんが、しっかりと宝の玉を描いて白光輝いているというならば、なんなのか。光なんです。光は闇知らず、すべてを包み、すべてを浄化させ、すべてを打ち消します。だからそこに法玉いう完璧にそれを置いているなら、ここから雑念が湧き出ても沈めてくれるの、あなた方が無理せずに、力与えずに。
皆さんが消そう消そうは、いっそう力を与えます。あの私が沖縄の今帰仁の、そこで蜘蛛から教わったように、力与えて皆さんは対立します、常に。戦争もそのとおり。武器を向けて戦い合わなければ、戦争は沈みます。戦わぬ相手と、どうして戦いようがありましょうか。戦えるはずはない。
そのときにこれが、すべて調和されたときには、神の思考が働きます。もう神の創造、神の思考、神のすべてが。そこにして皆さんは、我は神なり、我神なるがゆえに、無限の智慧、無限の力、無限の愛、光の泉、宝庫、我が内に在りを体験するであろうと。
純子さんが一度どこで明想していたときか。深くそこに潜ったときに、もう我が内を見たときには、もうそこにいつでも使える無限の智慧の泉は準備されている、いつでも使い出せる、というその体験をしたと言います。これはまさに私が説いていること、そのもの。それを皆さん自身が、、
じゃ、どこに集中するのか。私が何年も何年もそのように、一つ一つのチャクラを努力し、一つ一つを体験したかぎり、アジナチャクラの方だったの。北海道で教えられたのも見せられたのも、アジナチャクラ。
それは私が、ただ自分の勝手でそうしたのではなく、また私の大好きなクリヤヨーガを説いている、その聖人の方々に、私の明想の中に意識で現れ来たときに「あなた方が今の今、ここに至るまでに、7つのチャクラ、あっちがいい、こっちがいいと教え説く者がいるけど、どこを集中したのか」で、フランスで2回、あのイエスキリストが現れたときもそのとおり。どこ。完璧にアジナチャクラ、一致していました。
私が何十年かけて探ってきた、そのアジナチャクラ。で、またそのクリヤヨーガを教え説いているババジはじめ、今まではヨガナンダか、まぁ、もっと上ならクリシュナ、で、イエスキリスト含めて、すべて今まで集中して努力してきたのはアジナチャクラ。間違いないって、私はそれを完璧にとらえたときに、法玉明想をこの世に出しました。
今回のノルウェーでも、あの若い男性が、明想、もう二十何年、三十何年、努力に努力を積み重ねてきたけれど、なんの手応えもない、いまだかつて明想のメの字もわからないと言われました。初日です。ただ初日で法玉明想をアドバイスしたならば、完璧に明想に手応えを感じましたと、もうこの明想ならば私はやれる、もう自信を持って言えると言われます。
皆さん自身がそれは、やるかやらないかは、あなた方次第。私は必ずしもその明想をやれという権利は与えられていません、皆さんを縛る権利も、強制する権利も。本当に皆さん自身が、この無形無双である原因なき原因という、その実相をそれを我としてつかむためには、どうしても明想が必要です。明想を通さずにして、いまだかつて神に至った人間はいないというほど、明想は大事なこと。
だからインドの聖人の方々は、明想・内観・臆念・坐禅・禅とかで、それでもってすべてを解決してきたではないでしょうか。見える自分から見えない自分へと。じゃぁ、その方々は特別な存在なのか、特別に特別な能力を与えられた方々なのか。
神は人の上に人を造らず。神は人の下に人を造らず。それはあなた方が、意志と勇気と忍耐と努力をもって、正しいその方向に進むことができるならば、誰しも完成に至るということを知らねばなりません。もし特別な人間にしか、その実相に入ることができぬと言うならば、私は全世界を、このように時間かけて、その飛行機代を費やして説く意味なんてありません。
しかし、真実、普遍、不滅、無限の宝物は、あなた方の中に内在していることを私は見ることができるゆえに、感ずることができるゆえに、努力すればあなた方そのものだよと、そう説くことができるではないでしょうか。どこかの宗教に行って買うことしかできぬならば、私は皆さんの前に立って説く必要はありません。どこの宗教に行って買って来い、いくらするから買って来い、私はそう言うだろうと。
しかし、あなた方の少しの努力で、それは一人一人その努力という少しも大きいも違いはありましょうけど、私の努力というならば、もう皆さんが想像はできません。命を懸けます。命を懸けるがゆえに、私はそれを手にすることができます。
まさか、今日から明想大事だよと言われていながら、ちょっと今日は働き疲れたから、動いて少し疲れたから、明日にしよう。私はなんと言うのか。明日はない。
じゃぁ皆さん、今日肉体を脱いでみてください。もちろん命にしては、永遠不滅。昨日でもない、今日でもない、明日でもない、永遠なるものです。しかし肉体を持ったあなた方には、完全に悟りに至るまでは、皆さんは昨日、今日、明日ではなく、もうこの一瞬というこの実在を理解してもらいたい。
だから明日からしよう、私はないと言います。今日肉体を脱いだら、明日はあるのかって。もうなにをもって明想するのかと、肉体外せば。だからこそ我々は、肉体修理のために、ここに生きているのでもない。おいしいものを食べて満足するために生きているものでもない。この世の酒に酔って満足するためでもない。肉の快楽に溺れ生きるためでもない。しっかりとこの瞬間が神であることを実感、実際に感じ生きるために、今があるということを理解してもらいたい。
だから、さぁ今日は動き疲れたから働き疲れたから、明日に明想しよう、明日から学ぼう。明日はない。そういう人間がどれほど肉体を脱いでいったのか。私のいとこも目の前にして、それを見せつけられています。今から何年前か、7、8年前か。ちょうど神奈川で土木作業をしておりました。で、私のお母さんの妹、叔母さんに言われて、神奈川からこの山梨までは、そう長い距離でもない。努力すればいつでも、行き来もできる。しっかりと今生、この真理を学んていた方がいいと言われたならば、もう少し蓄えてから、もう少しもう少し、このお金を貯金してから。即、朝に倒れてそのまま、さようなら。
だから私はいつも言います。虎は死んで美しい皮を残すけど、人間死んでなにを残すのか。常に後悔をします、悔いを残します。もう肉体脱ぎ去ってから、山梨に行って学んでいれば良かった、あのときに私を会ってれば良かった、後悔しても始まりましょうか。
だから今日のこの瞬間というこの瞬間に、皆さんは、すべてがあるということを知ってもらいたい。智慧も力も、愛も光も、無限の宝は昨日にでもなく明日にでもなく、この一瞬というこの瞬間にすべてがあるということを理解し、この瞬間をけして無駄な浪費するあなた方であってはならない。
今日もちろん皆さんは、仕事を捨てて明想をしなさいという意味でもない。なぜなら明想は、生活そのものが明想とも私は言います。あえて何時間、何十時間もただ目を閉じて座っているだけが明想ではなく、目を閉じているときは我、神なり、我すでに神なり。目を開いて仕事をしているとき、食事をしているとき、友達とまた語り合っているときが人間意識ならば個人意識ならば、なんの価値もない。24時間四六時中、神意識でありなさい、明想状態。
そこに至れば、座る必要もない。座ればなぜ。我々はどうしても目で、目を開いて見ているものに支配されて、在る居ると錯覚におちいっていきます。見えるものがすべてだ、見えないものなんて、見えないがゆえにいない、ない、感じない。しかし見えないものこそが本物。その見えないものを観るためには感ずるためには、どうしても我々は沈黙を守って、その深い意識状態の中に潜らなければならない、深いその境地に。そのために座るということを皆さんは今、努力していること。
どうしても目を開いて映し見ているものが在る、居る、錯覚します。また耳に聞こえればどうしても皆さんはそこを、あの犬は大きいのか子犬なのか、あるいはちょうど中間にいるものか、あるいはどういう種類なのか、皆さんそこにいきます。しかし皆さんは本当の明想状態の中にあれば、見ていて支配されない、もう聞こえていて支配されることもない。これを私は「悪の中にいて悪に汚れない自分、闇に染まらない自分」という表現をしています。
ただ皆さん自身が、観念概念で描いている、あの人間の悪いことをしている悪だとかそういうものではありません。あなた方を妨げて、深く深く真のこの自分の中に融合しようとするあなた方を妨げているそのものを、私は悪と闇と例えで説いてていることも理解してもらいたい。
例えば皆さんが今、しっかりと深く深く明想をしようとしているにもかかわらず、皆さんが犬の鳴き声に妨げられて明想ができぬと言うならば、妨げられたあなた方ではないでしょうか。また見ているものが、もうここでせっかくいい明想をしようとしているにも、美しい女性が、世界一のあの美人の女性がそこを通れば、あぁすばらしい美しい、この女性と友達にでもなれれば、恋人にでもなれれば、妨げられているではないでしょうか。
だからある聖人に、あのヨガナンダが教わってこう言われたといいます。「女性は地獄への門」。なぜあの聖人は「女性は地獄への門」と説いたんだろうと、あのヨガナンダがあの教え説いているこの偉大な先生に聞きました、この師に聞きました。あの聖人はなぜ「女性は地獄への門」と説いたんだろうと。「あの聖人は常にいいところいいところまで、意識を高めてきているにもかかわらず、最後の最後で常に女性に妨げられて常に落ちたんだろう」と。「それで女性は地獄への門と説いたのだろう」と。
それは自分の弱さ、自分のこの至らなさ。だから私ならばこう言うといいます。その聖人は教えるために、そう言ったかも知れないけれど、なにものにも妨げられずに根源を悟りなさいと訴えでそう言われたかも知れないけれど、例えばこの悟りには無限ですから、、
常に私は100という数字を例えます。この無限の神を悟るのに、100の数字、その100%そのものの中に融合しないかぎり悟りはないとして、私が99%は完璧にそこに自分を高めた。99、もうここまで命を懸けて、99もう完成に、あと1%で完成に至るまでの99を私は仕上げた。その残りの1%、完璧に入りきってないがゆえに、残りの1%で金の誘惑で私がドン底に落ちたか、女性の誘惑に負けてドン底に落ちたか、あるいは地位・名誉の権力、そういう私そのものの誘惑に私が落ちたとするならば、今まで落ちた人間を私は見てきたかぎり、そこまで99は至らないにしても、50であっても40であっても、すべて私が見てきたかぎりは、すべて女性で落ちたものは女性が悪かった、あの女性の誘惑を受けて。金に落ちた者は金の、地位・名誉・権力に落ちた者はそう言います。
しかし私ならばどう言うのか。私は誰のせいでもない。自分が100%入りきれていなかった私の至らなさを責めるであろうと。誰のせいなのか。私が100%完璧であったならば、女性の誘惑で落ちることがあるでしょうか。あるいは金や富やその地位・名誉・権力の誘惑で落ちることがあるでしょうか。
それを理解しない者は常に不平不満。相手のせい、この者のせい、そのように常にネガティブな方向に、常に自分自身を落としていきます。100%皆さん自身が、この命がけで、もちろん仕事を捨ててそうしなさいという意味ではありません。生活の中で常にアジナの方に神を意識し、「我と神とは一体なり」。
今までお母さんが「だんなさん、子供たちのために食事を作ったんだ」「洗濯をしてあげたんだ」「掃除したんだ」という思いを切り替えて、この手足を使って神というだんなさんのために、神という息子・娘のために子供たちのために、顕現したのは内在の神なりと。内在の神こそがすべてのこと為し得たんだと、そういう思いに切り替えれば、これも明想ではないでしょうか。
明想は、山や洞窟にこもって肉体が朽ち果てるまで目を閉じていることが明想ではないんだと。明想は、この一瞬一瞬の中に在るということを知ってもらいたい。なぜ私があまり座ろうとしないのか。なぜならば、ここに立って目を見開いていても、あなた方を女性として男性として肉的なあなた方を見て、あなた方と言ってましょうか。すべては美しき天使たち。無限に飛び立つ美しき天使たち。
本質根源である、女性男性を超えた、女性でもなければ男性でもない、ただこのまとった衣装の背後に実在する我、神なり、あなた方も神なり、すべて神なり。一命一体、自他一体、全一体という根源なるそのものからあなた方を見て、あなた、あなた方と説いていることを知らねばなりません。
目を閉じることは、その根源そのものが寝ても覚めても、まぁ今日の一日が24時間ならば、それは無限ですから24時間、それは限定することはできません。ただ今日の一日、皆さん一日一日を生きているというから24時間。24時間四六時中、皆さんが「我、神なり。すべては神なり。我、愛なり。すべては愛なり」その境地ならば、あえてもうここに座り込んでする必要もない。そのままにしてすべてに神が見えるならば。
しかし我々は、我が神であり、すべてが神であることを見るために、我が神であり、すべてが神であることを感じ実感するために、我々はこの雑念をすべて克服しないといけない。睡魔に打ち勝たないといけない。
よく雑念が出れば明想を止めた方がいいのかという方がいます。雑念が出てくるたびに明想を止めたんじゃ、死ぬまで雑念が湧き出てくる。じゃ、いついい明想に入るのかと。それは克服しなければならないこと。だからこそ、ここに法玉というそれを描いて、皆さんが明想することに雑念が湧き出てきたときには、すべてそれが浄化してくれるだろうと。
それは私がこれをもっと大きく例えるならば、こういうふうに。中国かどこかの体験。沖縄でもいろんな所で、体験は何回もありましょうけど、例えば、ニューヨークでもそうでした。ちょうどもう、どうしてもどうしてもあの9月の11日。あの事件、あの事故、あの状態が近づけば、やっぱり家族を失った者、友達を失った者は、どうしてもそれを思い出します。根元にそれが潜んでいるかぎりは。
いつもなんでもなかったにもかかわらず、そこに9月の11日に近づくにつれて、もう憎しみ、怒り、恐怖、湧き出て参ります。そのときちょうど、あの11日の朝だったのか、我々が皆さんが早く会場に集まって明想をしだしたときに、ちょうど真っ黒い雲がニューヨークの上空を覆っているように、もうあのマンガで描かれているように、そういう現象が起こっておりました。
しかしもう心ある方が、もちろん日本でも明想しています。で、その会場に集まって明想しだしたときに、先ほども岩波さんが言われたように「ここで放たれた愛の波動が、愛のエネルギー、愛のバイブレーションが、神の御心によって必要なところに使われますように」と、あるいは使われたというそういう状態が、一人一人の肉体を伝導体として放った愛の波動が、全部浄化していく姿。私も完璧にとらえて、あと5、6名の向こうから参加している方々もとらえておりました。まったく同じこと。
このように、このネガティブや消極、破壊的なその波動の満ち満ちている今の状態を、なにでもって浄化することができるのか。掃除機で皆さんが部屋のゴミを吸いこんで掃除できるように、そのようにできればもうたやすいこと、簡単。私、そういう機械を作ろうかなと思っている、今。そうすれば私は世界一の金持ちになるだろうと。あなた方のネガティブ、消極、破壊的なものが潜んでいる、そこに観念概念、あるいはまた皆さんの怒り、ねたみ、また嫉妬、機械を突っ込んで、すぐ私が全部吸い込ます。もう即、悟り、皆さん。これはもう私が世界一の金持ちになる方法でもあり、また皆さんを即、悟りに導ける方法でもあるから、今日の夜から明想してそれを考えてみよう。そのように皆さんが部屋のゴミを掃除機で吸い込ますように、この世の機械や道具や物をもってして、この地球が平和になるならば、たやすいこと。
これはあなた方の一点の曇りなき、汚れなき、その美しい心から放つ愛の波動で以外には、けしてこの地球を覆っているネガティブな波動、あるいは日本というこの国を覆っているその波動、あるいはアメリカやヨーロッパ、中国そこを覆っている波動の浄化はありえないということを知ってもらいたい。
だからこそ私は常に、肉体は愛の伝導体と説くではないでしょうか。しかし今の人間はどうなのか。愛の伝導体どころか、あなた方は美しい世界を創ろうとするのに、また理解できない者は、真理を学ばない者は、言いたい放題、思いたい放題、やりたい放題で、またそこに破壊的な波動で、また積み重ねていくこと。
だからあなた方と、、警察と悪い人間と追いかけっこしているように、もう最高の鍵を作れば壊す者がいる。また最高の鍵を作ろうとすれば、またそれを壊す者がいる。もう常に常に追いかけっこ。だから一人でも多くの者が、、例えば10名のうちで、ネガティブなものを放つ者が10名、愛を放つ者も10名いるとして、愛の波動を放つ者が1人、で、ネガティブなものを放つ者が9名よりは、1人増えて2人増えて、5あたり来れば、半分半分位に来れば、最高に調和されていくだろうと。まぁ私は、3分の1とも言います。
本来は1人で簡単なこと。しかしなぜ一人でしないのか。全体そろって、全体が完全でなければ神は完全ではないゆえに、全体を望んでいます。地水火風空を動かすことなんて、普遍意識、無限意識、宇宙意識、意識そのものは、たやすく動かします。
昨日は、私はこれはめったにしたことのない。昨日、ちょうど宝塚に走るときです。もう小林さんのハンドル握るその車は、もうワイパーでも間に合わないほどの大雨。で、私はすぐにそこに沈黙を守って、そこに入りました。もうこれじゃ、我々せっかく朝5時に出たにもかかわらず、雨で事故ったり、雨で妨げられて時間遅れるならば、早く出て来たその意味もなければ価値もない。「今の雨よ、止め」と私が一瞬思った瞬間、カンと太陽が出ました。
はたして昨日、居って行った何名が自覚したのか。即、私が沈黙を守ってその意識の中に入ったならば、あれほど降って降って降りまくっている、あのワイパーでも間に合わせない雨が、すぐ太陽でカンと照りつけました。地水火風空は、このように皆さん自身が実相という根源に、そのものならば簡単なこと。
しかし、じゃ私が世界を、私が日本を、すべてそうあっていいのか。皆さんはなんのために。皆さん自身が自らを高めて、皆さん自身が神である境地に至らないかぎり、なんの価値もない。だから一人一人が共に手を取り合って、共に助け合いいたわり思いやりを持って、とそういう私は表現するのはその意味であること。
誰一人欠けることなく、誰一人落ちることなく、共に今生、手を取り合って実相という根源の中に、そこに至ってもらいたい。それが私の最高な欲望といいます。これが最高な希望といいます。
そうでなければ、あえて肉体を持つ必要もない状態にあるならば、そこにこの衣装という肉体をまとって、非難受けながら、非難され様々な悪しき表現で障害で、様々な状態を体験経験しながら、ここに肉体を置く必要があるでしょうか。それをも超えた絶対なる無限の愛を見ているがゆえに、障害も障害として感ずることもない、妨げも妨げとして感ずることもない、非難も批判もそれそのものに、なんのあれもなく、愛そのものとしてここに立ち、すべてをそこに顕現できるということを知らねばなりません。
だからこそ私は、あの、もうこれからやがて青々としたその稲穂は、やがて実を付けていくだろう。あの秋になったら黄金の色を付け、実の入った稲穂ほど頭を垂れて。沖縄でもそういう教え。「実の入った稲穂ほど頭を垂れる」。それを私は、大いなる者は仕えるものとなりなさい。大いなる者は、すべてのしもべとなって仕える者となりなさいと。
あなた方も、もう我と神とは一体なりという境地、我は全体であり、全体は我なり、一命一体、自他一体、全一体という境地に入ったならば、居ても立ってもおれなく皆さんは、少しでも少しでも、もうその境地から霊的な面で見るならば、皆さんは我が子と見るでしょう。で、肉体を我に置いて子を見るならば、我のすべて兄弟姉妹と見ることでしょう。
すべての我が子たちのために、少しでも愛という愛で成長させていきたい、という思いがこんこんと湧き出て来るであろうと。
もうそこに自分のために、自分とは偽我の自分です。真我なる自分ならばいいけれど、偽我の自分のために生きようではない。少しの時間でも我が子たちのために、使い生きよう、この肉体伝導体です。この肉体伝導体を使い生きよう。
だから個人主義と利己主義とは、あるいは非利己主義とは即、わかること。利己主義は常に個人事で生きています。自分さえ良ければいい、なんでも自分、自分、自分事。しかし非利己主義はどうなのか。自分の肉体を破壊してでも、自分の肉体を朽ち果てても、兄弟姉妹のために、我が子たちのために働きたい。そういう境地に入っていきます。だから誰かに言われなくても、自分自身は一番はっきりわかること。常に利己主義で生きているのか、非利己主義で生きているかは、はっきりわかります。
だからこそ聖人の方々は、病気をする必要もないにもかかわらず、もうある程度成熟した、ある程度成長したあの弟子たちのカルマを背負って、それも相手が努力してそこまで至った結果です。もちろん、100%汚れを付けている者は自分で努力しなければならない。99%完璧に磨き上げて、あと1点でという状態を、よくそういう状態で聖人は、すべて我が身に相手の汚れ、曇り、あるいはカルマを受けて自分自身が肉体を破壊する者もいましょう。
これは私は沖縄で、体験した体験もあります。相手のこの脳腫瘍、何名かの脳腫瘍を受けて、もし私自身がそれを浄化する愛の力がなかったならば、私こそが死んでいただろうと。それを私が誰から教わることもなく、教えられることもなく聞いたこともなく、それをやっていたことを私はびっくりしました。
後にそういうテープを聞かされたときに、聖人とて生涯で1回や2回をやるかということが訴えられておりました。もしその浄化する、この神の能力、神の愛という力を持ってないならば、その者がもう死んでいく他にないんだと。それを沖縄で、誰から教えられることもなく、本や書物を読むことなく、自然にそれを私が体験していたことを私はびっくりします、2、3名。あるいはまた相手の憑依を受けて自分自身が浄化して吐き出した体験もあります。一様にそういうことは、すべて体験経験をこなさせられていること。
これは、私がその特別な能力を持ったからでもない。私はあなた方より、一原子もなにも高い者でもない。神において我々は、ただ一つです。一体です。神は人の上に人を造らず、神は人の下に人を造らず、根源においては全く同一。
ともに我々は、あの岩波さんが先ほども言われたように、私はできぬできぬでは永遠にできません。私はできる。私は今、即、完全である。自信を持って皆さんがそれを語れるあなた方でなければ、どうしてそこに至れましょうか。私、病人です、私は無知です、私は無力です、私、迷い人です。どうしていつ到達しましょうか。あなた方はそのように、我、完全なりと自信を持ってその答えを出せば、それは完全でなければいけないから、すべてが正されていきます。
あやふやでは正されません。そこに断言して言いきることです。我と神とは一体なり、神が完全であるがごとく、我、完全なり。あやふやでどうしてそれが確立しましょうか。あやふやは、皆さん、一度に二人の主人は持つことできぬというのもその意味。
金儲けもしたい、真理も完璧にとらえたい、私はそれは仕事を捨てなさいという意味ではありません。集中するときには、どこに集中しないとならないのか。で、そこにおいて金も儲けたい。真理も学びたい。そこには力が分散して、どうしてまとまりましょうか。そこに、その引き寄せる力の違いが生じてきます。できるかぎり、だから「心を尽くし、精神を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、我が内なる神を愛せよ」というのはその意味です。
共に我々は、今生こそ皆さんは幾転生という人生を、なにか知りたい、なにかつかみたい、なにかを悟りたい、なにか得たい、と皆さん、追いかけて来たあなた方であれば、今生、もう何万という転生、何千という転生、何百という転生を、やり乗り越えて来たあなた方ならば、今生の一転生、命を懸け、そのようにやる事が、やれるという事を知ってもらいたい。
あきらめるならば終わりです。で、真理からずれた言葉で皆さん自身が生きるならば、もうこれは不可能です。だからこそ、我が言葉を聞き、我がその説く真理を受け入れて、その御心を行うのが我が母であり、我が兄弟姉妹であると、そう説いたではないでしょうか。
私の母とは誰なのか。私の兄弟姉妹とは誰なのか。「私を生きる」あなた方です。そこを理解してもらいたい。今日も皆さんと学べたことに感謝します。どうもありがとうございました。